大分七夕まつり

としひさより

『令和3年度(第40回)大分七夕まつり』について、密を回避できるものについては実施する旨、執行部から報告がありました。密を回避できるイベントが3つありました。

1.七夕飾りつけ(8月6日~10日)
市内中心部商店街の店舗店頭に「七夕飾り」を飾り付ける。
2.山車(だし)、神輿(みこし)の展示(8月4日~6日)
大分駅府内中央口(北口)に、府内戦紙(ふないぱっちん)の山車(だし)・神社神輿(じんじゃみこし)が展示されます。また、過去の映像が放送される、ほかのイベントがあります。
* 山車(だし)・神輿(みこし)は展示のみで、運行はありません。
3.(仮)バルーンリリース(8月7日)
大分市民が願いを込めて書いた短冊を、約18,000個の風船に結び付けて飛ばします。

  • 観覧者の密を避けるため、実施場所は非公開になっています。
  • ゴム風船及び短冊については、成分が分解して、自然に戻るものが使用されます。

府内戦紙(ふないぱっちん)
武者や竜などをかたどった20基以上の山車(だし)と踊り隊が、歩行者天国となった大分市の目抜き通りである中央通りを練り歩きます。かなりの迫力です。
府内戦紙(ふないぱっちん)の名前の由来は、1985年までさかのぼります。この年、大分商工会議所青年部により作られた1基の山車(だし)が、『大分七夕祭りの市民みこし』に登場しました。この山車(だし)を見た当時の佐藤益美市長が、「子どものころ遊んだ『ぱっちん(めんこ)』の絵柄のようだ」と評されたことから、『府内ぱっちん』と命名されました。
当時は、府内戦紙(ふないぱっちん)として独立したイベントではなく、市民みこしの一つとしての参加でした。3年後に新たに2団体の山車(だし)が加わり、その翌年には12基に増え、府内戦紙(ふないぱっちん)として独立した時間枠で実施されるようになりました。
ちなみに、山車(だし)とは『日本で祭礼の際に引いたり担いだりする出し物の総称。花や人形などで豪華な装飾が施されていることが多い』と辞書にありました。

チキリンばやし市民総踊り
チキリンばやしは、1970年に制作された大分市の新民謡です。大分市には(伝統的な)大きな祭りが無く、また、祭りの時に踊る独自の踊りや歌もありませんでした。そこで、大分市独自の歌・踊りを作ろうと、大分市民の作詞、作曲、振り付けの専門家等、十数名が制作に取りかかりました。まず、大分の方言を取り入れた歌詞が完成。ついで、大分に古くから伝わるチキリン(と表現される、雅楽で使われる鉦(かね)のメロディ)に乗せた曲ができ、振り付けが作られました。
制作された翌年には、歌手・都はるみさんによるレコードも発売されています。
踊り当日は、それぞれの団体ごとに揃いの衣装を着た約2,000人の踊り手が、メイン会場である中央通りにくり出します。私も過去20年のあいだ、激しい雨やコロナ過で中止になった年を除き、毎年参加しています。楽しいです。飛び入り参加もできます。

大分合同新聞花火大会
市街地を流れる大分川の弁天大橋上流で、約6千発の花火が打ち上げられます。

『七夕まつり』でネット検索すると、『七夕はお盆の行事』という言葉が目に入ってきました。『祭(まつり)』が慰霊の儀式とは聞いたことがあります。『七夕まつり』がご先祖を供養する行事とは初耳でした。
スマホの画面を上に動かすと『旧暦の7月7日は、現在のこよみの8月中旬前後。お盆の時期にあたることが多い。お盆の時期は「あの世」と「この世」の境目があいまいになり、ご先祖が「この世」に帰って来る時。ご先祖を供養する行事であった七夕は、徐々に今の形へと変化した』とありました。
お盆に、娘たち夫婦はコロナ過で帰って来ることが出来ませんが、ご先祖さまは帰ってきてほしいと思いました。
(としひさ)

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