ふるさと愛

としひさより

何気なくつけたラジオから、『空に太陽がある限り』という歌が流れてきました。この歌で、紅白歌合戦に2回目の出場を果たした歌手、にしきのあきらさんの大ヒット曲です。『空に太陽がある限り』が大ヒットしたのは、わたしが小学校5年生の時です。覚えています。『 覚えている 』にはワケがあります。

5年生の頃、大分市では海岸を埋め立て、新日鉄、昭和電工などの大企業が次々に進出して来ていました。社員さん用のアパートも建てられ、全国各地から大勢の人が移り住んで来ていました。わたしが通学していた明治小学校の校区内にも次々にアパートが建ち、土地が造成され、明野団地という大分県で最大級のマンモス団地が誕生しようとしていました。4年生の頃から転校生が増え始め、5年生の時、大分県1のマンモス小学校になりました。

その5年生のある日、明野団地に引っ越して来た同級生の男の子の家に遊びに行きました。他にも2~3人来ていました。わたし以外は、みんな県外から来た子たちでした。しばらく遊んでいるうち、好きな歌手は誰かという話になりました。わたしは真っ先に「○○○○」と答えました。御三家と呼ばれていた超人気歌手3人のうちの1人です。みんなが不思議そうな顔をしました。なぜか気まずい空気が流れました。少し間があったあと、ひとりが「にしきのあきらじゃないの?」と聞いてきました。「ぼくはにしきのあきら」、ほかの子も「ぼくもにしきのあきら」と言っています。訳が分からず、寂しい思いをしたことが思い出として残りました。

あとで、にしきのあきらさんが大分県大分市出身だと知りました。今思えば転校生がなぜ「にしきのあきらじゃないの?」と聞いてきたのか想像ができます。

みんな、小学校4年生、5年生で大分に引っ越してきた子たちです。ふるさとを懐かしいと思う気持ちが人一倍強かったのではないかと思います。その彼らのふるさとが、大分になりました。『大分が新しいふるさとになった。ふるさとになった大分市出身の歌手を、転校してきた自分たちが応援しているのに、生まれ育った子が応援しないのはなぜ?』という気持ちだったのではないかと思います。当時のわたしよりはるかに強い『ふるさと愛』を持っていたのだと思います。負けられません。
(としひさ)

タイトルとURLをコピーしました