ヒロシマ

としひさより

広島に原子爆弾が投下されてから今日(R6年8月6日)で79年になります。
(以下、広島市HP より要約)
1945年(昭和20年)8月6日、月曜日の朝は快晴で真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2寺10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時は(中略)・・警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食を取ったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルがなりました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報!敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

原爆でどれくらいの人がお亡くなりになったのか、いろいろな機関が調査していますが、現在でも正確には分かっていません。
(理由)
・被曝直前の人口が分かる資料が焼失してしまった。
・多くの人が疎開のため広島市を離れたり、逆に広島市に疎開してきたりして、人口が流動的であった。
・軍関係者の情報が不明。
広島市では、1945年(昭和20年)12月末までに約14万人(±1万人)がお亡くなりになったと推計しています。

私はこれまで、原爆の生々しい被害描写には耐えられず、敢えて眼を背けてきたような気がします。
(としひさ)

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